今まで、パリの公園や美術館などを紹介してきましたが、今回の記事はパリ中を2日間回ってきた(自分で言うのもなんですが)大作です。長文、写真多数ですので、興味の無い方はスルーして下さいね。
今回は「ショパンの足跡を追う」がテーマです。
ポーランド生まれのショパンですが、実は彼のお父さんはフランス人でした。皆さんご存知でしたか?私はこの記事を書くために調べて初めて知りました。ロレーヌ地方で生まれて、16歳の時にポーランドに移住したそうです。
では、ショパンの住んだ家、コンサートをした場所、思い出の品、肖像画、胸像などを紹介します。
ショパンのパリ到着から葬儀まで
ショパンは1831年9月末にパリに到着しました。
パリ到着から死ぬまでの間に、文献によるとパリ市内で9回転居したとされています。(旅行先は含めず)
1)1831年9月から1832年3月まで。
27 Boulevard Poissonnière 2e の建物の(日本式)6階に住んだ。
建物の最上階で、彼は「モンマルトルの丘からパンテオンまでパリの全てが見渡せる。」と書いている。
2)1832年末から1833年6月まで
Hôtel cité Bergèreの一室を借りていた。(4 cité Bergère 9e)
今でもこのホテルは営業しています。
3)1833年6月から1836年9月まで
Hotel d’Epinay の一室に住んでいた。(5 rue de la Chaussee d’Antin
9e)
現在この建物はなくなり、アメリカのホテル「W」に取って代わられ、住所の番地は従業員出口となっている。従業員が外でタバコを吸っていたので尋ねてみると、ショパンが滞在していた事は誰も知らなかった。
4)1836年9月から1839年9月まで
(38 rue de la Chaussee d’Antin 9e )
現在その建物は無いが、2部屋のアパートを3か月ごとに425F払っていたという記録がある。彼はここで、リストなど親しい友人を呼んで数回音楽サロンを開いた。
現在のギャラリーラファイエットの東向かい側でH&M。
5)1839年10月11日から1841年11月まで
(5 rue Tronchet 9e)
マドレーヌ寺院の裏手。
スペイン・マジョルカ島、ジョルジュサンドの別荘があるNohantから帰ってくると、この住所の(日本式)2階に住んだ。
6)1841年11月2日から
(16 rue Pigalle 9e)
ジョルジュサンドが住んでいたピガール通りに移る。
文献では16番地となっているが、現地の16番地には特に表記はなく、代わりに20番地に碑文が掲げられている。逆に20番地の碑文に関しては、文献上には無いので、文献が間違いと思われる。
このピガール通りと次のオルレアン・スクエアーの居住に関しては、幾つかの文献上で多少の混乱が見られる。
7)1842年9月29日より1849年6月まで
(9 square d’Orleans 9e、入口は 80 rue Taitbout に面している)
恋人のジョルジュサンドは1842年から1847年まで5番地に住み、ショパンは9番地の地上階(日本式1階)に住んだ。但し、その間1848年の4月から11月までは英国に渡っていた。
8)1849年6月上旬から住み10週間後(8月まで?)に転居した。
(74 rue de Chaillot 16e)この住所の(日本式)3階に住んだ。
このシャイヨー通りは、現在、奇数番地は53番、偶数番地は30番までしかなく、その先の通りが改名してしまったか、当時のシャイヨー通りは全く別の通りであったことが考えられるが、パリのショパン協会のフランス語文献では、現在のトロカデロ広場に近いとある。この夏の期間家賃として400フランを支払った。住所特定不可能。
9)1849年9月末から終末
(12 place Vendome 1er)
現在は高級宝石店ショーメの店舗
この中庭に面した2階
ショパンが最後に見たであろう中庭には
現在高級宝石店の顧客用ヘリポートが
彼の姉・ルドヴィカとこの建物の中庭に面した(日本式)2階に住み、1849年10月17日肺結核の為、午前2時に旅立った。享年39歳。
マドレーヌ寺院
彼の死から約2週間後の10月30日に葬儀が行われた。約3000人が参列した。
彼の遺体は次のペール・ラシェーズ墓地に埋葬されたが、心臓だけは取り出して、祖国ポーランド、ワルシャワの教会に収められた。
ペール・ラシェーズ墓地のショパンの墓
ショパンにまつわるその他の場所
Hôtel Cromot-du-Boug
9 rue Cadet 9e
1832年2月26日、パリで初めてのコンサートをこのホテルのサロンで行った。現在は、この建物は改装中。
昔のコンセルヴァトワール(高等音楽院)
2 rue du
Conservatoire 9e
1832年5月20日、
モスクワ皇太子のコンサートで演奏した。
Salons Pleyel
22/24 rue de
Rochechouart 9e
昔はここがPleyelのサロンだったらしいです。
今では区の文化センター?
今では区の文化センター?
Hôtel Lambert
2 rue
Saint-Louis-en-l’Isle( または1/3 quai d’Anjou) 4e
ポーランドのチャルトリスキ王子に迎えられ、パリ滞在の足掛かりになった場所。
Salle Le Peletier
12 rue Le
Peletier 6e
以前のオペラ座(?)がここにあったそうです。現在は色々な企業が入っています。日本の東京海上火災保険パリ支社など。
ショパンに関する遺品、ゆかりのある品
ショパンの肖像画(ドラクロワ作)
ルーブル美術館、シュリー翼(日本式)3階・942番展示室
この肖像画は、本来左にジョルジュサンドと一緒に描かれていたが、後に2つに切り取られてしまった。左のジョルジュサンドの肖像はデンマークの個人収集家が所蔵している。
リュクサンブール公園のショパンの胸像
モンソー公園のショパンの彫像
ロマン派美術館のショパンの左手の型
ショパンが引いたピアノ
ちなみにリストの引いたピアノもあります。
次にサンルイ島にある、ポーランド歴史文学協会・図書館内のショパンの間をご紹介します。図書館内にはショパンの間以外にも、ポーランドの詩人・文学者を紹介する博物館となっています。
ショパンの間は、6畳くらいの小さな部屋ですが、パリ市内では一番遺品が揃っております。
本来、写真撮影禁止ですが、特別に許可を頂きました。日本語のとても見やすい解説書も用意されていました。
ショパンの版画像
「マズルカ ハ短調 作品6-2」自筆譜
ルドヴィック・ブラテル伯あてのショパンの手紙
(ポーランド語)
ポーランド文芸協会の登録リスト
リスト・左側上から4番目にショパンの名前が見える。
胸像各種
残念ながら、このピアノを弾いたか完全には
確認されていないらしい。
ショパンの左手の型
ショパンの髪の毛が収められたロケット
愛用のソファー、ヴァンドーム広場のアパートにて
ショパン死後の遺品オークションの告知ポスター
葬儀から1か月後の11月30日開催
デスマスク
ドラクロワが描いたショパン像をエッチングした物
オメル・ブッシュリー作
その他、ショパンにちなんだ場所
Passage Jouffroy内、一番奥にある。
但し、ショパンには関係ないらしい
16区メトロ・ミュエット駅近くにあるが、ショパンのロマンチシズムや繊細さなど全く感じられない単なる交差点?
特にショパンが勉強したわけではないが、
彼にちなんだ区の音楽芸術会館
まだ、ショパンに由来する施設はいくつかありますが、これだけでも、彼がパリジャンから如何に愛されていたかが良く分かると思います。
また、6月の最終週から7月の中旬まで、パリでショパン音楽祭も開催されます。
恐らくワルシャワにはこれ以上の博物館・史跡があるのでしょうね。いつか訪問してみたいです。
長文、お付き合い有難うございました。
ショパンの左手の石膏型は、東京大学の中央図書館に展示してありました。アレくらい大きな手だからこそ、あの難曲かつ名曲が誕生したのだろうな、とつくづく思いました。
返信削除東京大学にもあるのですね。いつか機会があれば訪問してみたいです。コメント有難うございました。
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